キヤノンギャラリー 飛弾野 数右衛門 写真展:ぼくの日記帳は、カメラだった

飛弾野数右衛門は北海道上川郡東川村(現東川町)役場に勤めながら、家族や身近な人びと、また村の行事や出来事を熱心に撮影してきました。
今回、本展で展示されるのは、昭和20年代から50年代にかけて町が復興し発展していく様子を捉えた写真です。
開催日程 | 会場 |
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2008年5月29日(木)~6月16日(月) | オープンギャラリー(品川) |
作者メッセージ
飛弾野数右衛門は1914(大正3)年に北海道上川郡東川村(現東川町)で生まれた。1928(昭和3)年に永山農業学校に入学してまもない14歳の頃、従兄弟から名刺判の国産カメラをプレゼントされたことをきっかけにして、写真撮影に夢中になって取り組むようになる。1931(昭和6)年に東川村役場に勤めてからは、家族や身近な人びと、また村の行事や出来事を熱心に撮影してきた。まさに日記をつけるような感覚で撮影された写真群は、戦前の北海道の人びとの暮らしの貴重な記録になっている。
1935(昭和10)年からの三度の出征を経て、飛弾野は戦後ふたたび役場に復帰し、最後は東川町の収入役を務めて1975(昭和50)年に定年退職した。その間も写真は撮り続けられ、町が復興し発展していく様子が克明に捉えられている。今回、本展で展示されるのは、この昭和20年代から50年代にかけての東川の写真である。
飛弾野は特に何か目的があって撮り続けていたわけではなく、あくまでも一アマチュア写真家の愉しみとしてこれらの写真を残してきた。それでも、そのいきいきと生命力あふれる写真群は次第に人びとの注目するところになり、2001(平成13)年に毎年開催されている東川町国際写真フェスティバル(東川町フォト・フェスタ)で第17回「写真の町」東川賞特別賞を受賞した。その後も「東京写真月間2006」の一環として開催された「地域と写真文化」展(東京都写真美術館)に作品が展示されるなど、写真関係者の注目を集め続けている。
飛弾野の写真の魅力はどこにあるのだろうか。アマチュア写真家の特権というべきであろうが、自分がとりたい被写体を、のびのびと思うままに撮り続けているということがある。写されている人のほとんどは彼の顔なじみであり、誰もが安心しきった楽しげな表情をカメラのレンズに向けている。そこにあらわれてくる、愛情のこもった感情の交流こそが、その生命力の源泉となっているのは間違いないと思う。
とはいえ、飛弾野は決して自分の感情に溺れているわけではない。彼は戦前役場の広報用に16ミリの映写機を使って村の行事を記録していた。この「東川ニュース」の製作は、戦後の昭和30年代まで続けられる。村の人びとに、誰が見てもわかるように映像の形で情報を伝えていくことの大切さ——その経験が彼の写真撮影にも活かされているように思う。単なる主観的な表現ではなく、客観的な「記録者」としての眼差しが彼の写真に感じられるのはそのためだろう。
飛弾野数右衛門の記録写真は、東川の人たちだけでなく、町にかかわりのないわれわれが見ても十分にその面白さを共有することができる。既に過去のものになりかけている「昭和」の記憶を浮かび上がらせてくれる、普遍的な力を持つ写真群として、何度でも見直すべき価値を備えているのではないだろうか。
飯沢耕太郎(「東京写真月間2008」運営副委員長)
プロフィール
飛弾野数右衛門(ひだの かずえもん)
略歴
- 1914年
- 北海道上川郡東川村生まれ(現東川町)。
- 1931年
- 庁立永山農業学校(現・旭川農業高等学校)卒業
- 1931年
- 東川村役場勤務
- 1975年
- 東川町役場 退職
- 1975年~1983年
- 東川町選挙管理委員会委員長
- 1975年~1979年
- 東川町立リリー保育所長
- 1975年~現在
- ひだの塗装工業会長
軍歴
- 1935年~1936年
- 歩兵第28連隊 現役
- 1938年~1939年
- 北部第4部隊 召集(中支派遣)
- 1944年~1945年
- 歩兵第100連隊 召集(鹿児島終戦)
勲7等陸軍歩兵曹長
主な写真歴
- 1928年
- 乾板カメラで写真を始める 東川町カメラクラブ 顧問
- 1934年~1963年
- 16ミリ映画を撮影 現在は東川町で保存
- 2001年
- 「写真の町」東川賞 特別賞受賞
- 2006年
- 「東京写真月間2006」「地域と写真文化」展(東京都写真美術館)
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